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民俗学における”同情”は相手を理解するツールになり得るか?...

民俗学における”同情”は相手を理解するツールになり得るか?

初めまして!
新しくTOW編集部に加入しましたまっぴーです。

私は題名にもある通り、民俗学について勉強しています。
民俗学とは何だと思う方々もいらっしゃると思いますが、まずは初めてなので、軽~く自己紹介させてください。

自分は生物学的には女になりますが、私としては女でも男でもない、無性、アジェンダ―という位置づけで生きています。
日本ではXジェンダーの中に位置づけられることが多く、他にも男と女の間であるという中性や、男女両方であるという両性だという人もいます。
この無性っていうのは時に私を悩ますときがありました。
一番大きな問題がコミュニケーションです。
相手のことを理解したくても、性が違う、性の感覚自体がないということは、異性という概念を理解することができないし、女の子だからというのもよくわからないのです。
もうその時点で結構詰んでるなぁと感じるのですが、その時に出会ったのがなんと民俗学の一つの考え方なのです。

そもそも民俗学とは何だ?

民俗学とは今を生きている人々の”当たり前”を探りながらその土地に住む人々の歴史や文化を描いていく学問です。
民俗学っていうと伝説とか、妖怪について調べているの?ってよく言われます。
もちろんそれについても研究しているのですが、基本はそれだけでなく、食べ物や言葉、冠婚葬祭、コミュニティ、すべてを通してそこに住む、今を生きている人々について考えています。

その土地の当たり前ってけっこうごろごろ転がっているものです。
一番わかりやすいのは料理の味。お正月に食べるお雑煮とか結構違っていますよね。丸餅なのか角餅なのか、白みそなのか赤みそなのか、澄まし汁なのか、もはや味噌ではないのか、地域で家庭で様々なお雑煮があります。
このお雑煮に何を入れるかっていうのも、その土地の人々がどんな生活をしていて、何を生業にしていて、何を信仰していたのかっていうので変わってくることもあるのです。
このような普段何気なく作っている料理や、普段話している言葉っていうのを、民俗学ではフィールドに入ってひたすら見聞きし回っているのです。
そしてそこに見えるその土地の”当たり前”の感覚を探しているのです。

柳田国男が言う「文字通りの同情」

日本の民俗学を確立したのは、柳田国男という人です。
日本史や倫理の教科書で見たことある人もいるのかなと思います。
彼はフィールドで調査する上で必要な視点をいくつか指摘しています。
その中にこのような言葉があります。

沢山の無形の記録を補完している人々に対して、つねに教えを受ける者の態度を失わず、まさに文字通りの同情をもってこれに臨むこと。

(柳田 1976 204)

「文字通りの同情」とは一体何なのでしょう。
一般的に言われる同情とは、他人の不幸や苦悩を自分のことのように思いやっていたわることを意味しています。
柳田の言う「同情」は調査者である見る人とその土地に住む見られる人との間で必要だと言っています。
簡単に言えば、見られる人の思考や感覚はその土地に住んでいるその人自身にしかわからないものです。
しかし見る人はできる限り理解しないといけません。
つまりこの「同情」というのは感情的なことを言っているのではなく、理解しようとするための方法のことを言っているのです。
人々の行動や言葉、道具の種類やその扱い方、人との関係性に注目することで、その「同情」を始めることができます。
「ここの人々はこういうことを思っているのかな」ってその行動や考えから様々な仮説を立てる。
そしてその仮説がダメだったらじっくり観察する。その繰り返し。
この繰り返しで自分の仮説がやっと見られる人の思いと一致したとき、それはやっと「同情」できたということになるのです。

この大いに試行錯誤をして得られたものが「同情」だと言われたとき、ふと自分の中で思ったことがあります。
あれ?この考え方って普段の生活でも活かせないかな?
これが”何もない”私が出会えた一つの方法です。

多様な価値観を理解するための「同情」

相手を理解しようとするとき、また自分とあまりにも異なる価値観にぶつかったとき、この「同情」ってのは、相手を理解する方法でもあるけれど、自分がこの立ち位置にいるんだって自己確認できるものにもなるのではないでしょうか。

私が”何もない”ことで相手の価値観が理解できないとき、なんとなく「同情」をしてみました。
そうすると意外にも自分はこの立ち位置にいるから相手のことを理解できないんだ、自分はこういう感覚が分からないから理解できないんだってのを何となく考えてみることができたのです。自分がされてどうかではなく、相手の目線をフラットに想像してみる。それが「同情」なんだと自分の中で強く感じました。
そしてそのズレをお互いに共有してみるのも意外にいいかもしれないと思ってみたり。

大切なのは、難しい、理解できないと感じてすべてをシャットダウンしないこと。
どうして自分は難しいって感じてしまうのか立ち止まって考えてみて、そして最初の仮説を立ててみませんか?

 


 

参考文献
柳田国男 1976 『青年と学問』 岩波書店


民俗学を学ぶ大学生です。観光とかコミュニティについて興味があります。博物館巡りとカフェ巡りとゲームをしている時が至福の時。埴輪の素朴なフォルムに魅力を感じる年頃です。

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